2026年5月25日月曜日

それでいいのだと言いたい



 先日ヤマト運輸のトラックの助手席に

私服姿のおじいちゃんが乗ってて、何者だ?と思ったら

駐車取り締まりの人から車を守るだけの、


ただ乗っていることが仕事の人だった。


そのおじいちゃんは陽の当たる中遠くの空を見上げてボッーっとしたり、


本を読んだりしていてとても和かで、目指すべきはこの姿かもしれない、、


と思う今日この頃、皆様如何お過ごしでしょうか。







代々木公園を散歩してたら奥で知り合いがサックスを練習してた







少し前にNetflixの細木数子を題材にしている「地獄に落ちるわよ」観た。


心が動くとか、考えさせられるとか、大変だったんだな〜という感情はなく、


どちらかというと、こういう人生送った方が面白いよなという感想だった。


見る角度によってはもちろん悪くも捉えらるものだけど、


破天荒というか、バイタリティの塊というか、素直というか、


こういう風に生きることができないから題材になる訳で


普通に細木数子いたら友達になりたいし、


こういう生き方は嫌いじゃないし、寧ろ好感を持てた。







恋多き細木数子が劇中で、万葉集では狂おしい恋を、


孤独の孤と悲しいの悲で「孤悲」と表現したと言っていた。


誰かといて満たされている瞬間ではなく、


寧ろ「一人の時間」に生まれる痛みのような感情が恋だったのかと。


会えない時間にふと相手を思い出したり、

胸が締め付けられるような切なさを感じる、

その孤独さの中で生まれる悲しさこそが、「こひ」の正体。。

昔の人がロマンチック過ぎて泣けてきたっす。






そんな中、たまに絵文字一文字送ったら飲みに行ってくれる

サウンドバックのようなボコボコにされてる飲み友との話である。

そのおじさんは昔お調子に乗ってちょっと場を盛り上げるために

人前で奥さんに失礼なことを言ったらしい。

その後、奥さんが「私にはいいけど他の人にはそんなことするなよ。」

と幾度となく躾けられた話をしてくれた。


そしておじさんは「僕は奥さんの作品ですから」と言ってハッとなった。


となると私も今まで付き合ってきた人の。。。笑







タモリさんの赤塚敏夫さんに向けた弔辞を思い出した)








友人も恋人も誰と付き合うかで人って良くも悪くもなるよね。


そういう意味では悪い人はいなかったと信じたいというか、


最早悪くても一緒に過ごしてくれた素晴らしい時間に感謝しつつ


人間である以上、より良く生きる為の糧だったと思って


昇華するしかないのではと思ったりする。


しかしながらエンパシーのカケラもない人のような姿をした


動物がいるのを私は知っている。


もう何のために言葉があって、何のために想像力があって、


何のために映画や小説のような文学があるのか。












この世界にたまに本当にうんざりする。


期待してたからとか、想像と違ってたからとかじゃない。


多分、自分に力がないからかもしれない。


もう少しましな世の中にするための力だ。


服を作るのも、楽しく生きるのも、金を稼ぐのも、


全てはマシな世の中にしたいからだと思う。








松田聖子---瑠璃色の地中





私も赤塚敏夫みたいに「それでいいのだ」と言って


全てのことを笑い飛ばしたい。








2026年4月21日火曜日

センスと思いやり



とあるバス停で綺麗な女性がすごい猫背で前屈みになって

読書をしている姿を見てなぜかドキッとしたのを覚えている。

ボロボロのバス停もいいし、美人なのももいいし、

前屈みの猫背もいいし、読書してる姿もいい。

こういう全てのシチュエーションが完璧にハマる瞬間、

本当は写真でも撮りたいものだが、ぐっとこらえて携帯にメモをする。

こんなしょうもない描写のメモを見返しては、

あの瞬間を切り取れた自分を褒める今日この頃、皆様いかがお過ごしでしょうか。

とあるメモに「センスと思いやり」とメモっていたので、

今日はそれに対して思いを馳せてみた。





マルジェラはセンスでしかない




センスは美意識の積み重ねから構築される。

美しいものを見て何故美しいか考えたり、

美しくないもを見て何故美しくないかを考え、

その繰り返しの中で自分なりの基準が少しずつ輪郭を持ち、

やがて「無意識の選択」として現れる。

センスとは瞬間的なひらめきではなく、

過去に積み重ねた問いと観察の総量だと思っている。




思いやりは想像力と経験の積み重ねで構築されている。

相手の立場・感情・状況を自分ごととして感じられる力と、 

自分が傷ついたり、助けられたりした記憶をブレンドしている。

ただ想像力だけだと空回りしやすく、

経験だけだと自分基準の優しさになりがちになる。

「想像力」と「経験」に足すなら「相手を見る姿勢」かもしれない。





センスも思いやりも日々の習慣だ。

考えることを常に怠らない人はこれがスッとできるし、一緒にいて居心地がよい。

しかし私達が生きる世界はこの積み重ねる余裕もないくらい忙しないらしく、

人は一瞬にして変わってしまうというのを最近遭遇してしまった。

仕事が忙しいから、疲れているから、

時間がないからと追い込まれる理由はたくさんあるんだろうな。

色んなことに迫られている人を見ると、大丈夫だよと言いたい気持ちでいっぱいだ。

仕事を少し休んでも死ぬ訳ではないし、疲れていたら気分転換したらいいし、

時間がなければ一回立ち止まってやり方を考え直したらいい。

総じて言いたいのは、少しあなたが止まっても世の中はなるようにしてなるし、

ぶっちゃけ何も変わりわしない。

ただ本当に大切なことをきちんと見極めないと大変なことにはなるし、

追われるとその見極めが一番難しくなるのだと思う。

目の前のことに応えるだけで精一杯になり、

何を大切にしたかったのかさえ、少しずつ曖昧になっていくのだろうなと想像する。




The 思いやりな大好きな夫婦




だからこそ時々立ち止まること、私はおサボりと言うがとても大切にしている。

自分がどこに向かっているのか、何を守りたかったのかを思い出す時間を。

センスも思いやりも、特別な才能ではなく、

そうした「立ち止まる余白」の中で静かに育っていくものだと思って

日々サボりまくっている。

おサボりをしない人は自分の世界で完結してる人が多い気がする。

もっと楽して生きたらええんですよ、って声掛けたいが呪縛は結構強くて中々届かない。

せめて、、と想像したが、他人に余計なことはせずに、

もし落ち着いた時期になって余白を一緒に過ごすごとができたら、

いっぱい楽しませることしかできないなと思った次第だ。

今日初めて会った人に人生楽しそうですねって言われた。

こちらは余白あり過ぎて楽しむために必死なので、

はい楽しいです!とアホみたいな回答をして打ち合わせを終えたっす。




NEWME ---  UA




人に対して最初はガラスのように大事に扱ってた時期を思い出して欲しい。

だいたい無料期間が終わると人ってプラスチックみたいに扱うの怖いよね。

プラスチックみたいに扱ったらプラスチックみたいに扱われるの知らないのかな。

思いやりってマジで大切なので、皆様隣人には特に優しくして下さいませ。

春の風を抱いて帰ります。きらり。











2026年4月10日金曜日

木に掘られる



近所の若者がこぞって集うカフェがある。

おしゃれっぽい人が写真を撮り合い、デートしたり、チルっている中で

昼過ぎから私は一人でネグローニのエスプレッソ割を飲んでいる。

仕事をしていたら、どうしようもない気持ちになったので

こういう時は散歩するのがいいし、ここのネグローニは美味しい。

ほろ苦い赤いグラスがとても綺麗で見惚れていたが

隣のカップルが胡散臭い投資話をしているもんだから

酔いが覚めてしまった今日この頃、皆様如何お過ごしでしょうか。






Udon Kyutaro







紀州のドンファンのニュースを見る度に何だこの事件はと思ってしまう。

ドンファンって何ですか。と毎回心で突っ込んでしまうし、

容疑者の女性のあの感じも毎回考えさせられてしまうし、

何よりも事件のネーミングがキャッチー過ぎて

この事件名を付けたライターのセンスにニヤニヤしてしまう。

本当に自分に関係ない事件でノイズでしかないのだが、

反応してしまう自分が負けたようで悔しい。







ノイズといえば、最近はノイズやらゴミやら邪魔するものなどから

どれだけ自分に入ってくるかを防ぐのが最大のラグジュアリーだと思っている。

ラグジュアリーと言うと何か嫌な感じだが、

そういう明らかなノイズが嫌だから少なくとも会社に勤めず、

良い距離感で自分の仕事を作ってきたつもりだった。

しかし、とある叔父さんとそのノイズについて話していた時のこと。

叔父さんは私の話を一通り聞いてこう言ったのだった、

「君にとっては一見無駄に見えるかもしれないけど、

その時間を無駄にするかどうかは君次第だぞ。」と。

無駄だと思ったらその時点で無駄だけど何か実りあるものにするなら

自分の考えや行動で価値のある時間にできるとサラッと言ってくれた。

無駄なことが好きな私だったが、

無駄と明らかなノイズの違いは理解してたつもりだったが

その叔父さんの言葉は私は素直に受け入れることができた。






大阪と京都に行ってきた。

取引先にご挨拶や生地工場に行ったり、桜を見たり寺でチルったりした。

飲みの席で、数学の話になった。

まだ解かれていない問題や、

数学が化学や物理や医学などの根幹である一方おざなりにされてる問題や、

問題に対してのアプローチの仕方など

目から鱗でお酒が美味しくこれはメモらないと、、

と思ってメモに残していたのが

「掘りたいと思って木を掘るか、木に掘られるか」だった。

翌朝二日酔い気味でこれを読んだ時なんだこれと思ったものだ。

うろ覚えな記憶を紐解くと

ある程度の知識や経験を基に解いていく自分ベースのものと、

何か分からないが目の前にあるものと対話し自然と手が動いてしまうという

意識と無意識の感覚の原理の話だった気がする。

この話は色んな角度で感動したし、川沿いの桜の花びらが散るのもそっちのけで

3軒目のバーに流れて行き、

恋愛トークで頭のメモリーがいっぱいになってしまった。






翌朝、久しぶりに三十三間堂に行った。

コロナ中に行った時は貸切状態で、境内で昼寝をしたくらい

ともて贅沢な空間だったが、信じられないほど人で溢れていて好きではなくなった。

丁度、写経ができる時間だったので筆をとり黙々と書く時間はとても贅沢だった。

最後に願い事を書く欄があったが、

自分の願い事は自分の力でやるタイプなのでとある人の健康を祈ってみた。

3回も念仏を唱えないといけないらしく、流石にそれは面倒だなと思ったが

他人のことを願うくらいピュアな自分を神様にアピールするために唱えた。






春が好きだったがうつろい過ぎてあまり好きじゃいかもしれない。

心ここにあらずで早く春が過ぎて欲しい。

そして木に掘られるくらい、何かに向き合って軽くなりたい。









Chilly Gonzales --- in Vienna
このチリーゴンザレスは明らかにピアノに掘られてる



















それでいいのだと言いたい

 先日ヤマト運輸のトラックの助手席に 私服姿のおじいちゃんが乗ってて、何者だ?と思ったら 駐車取り締まりの人から車を守るだけの、 ただ乗っていることが仕事の人だった。 そのおじいちゃんは陽の当たる中遠くの空を見上げてボッーっとしたり、 本を読んだりしていてとても和かで、目指...