2018年12月1日土曜日

熊手のお陰様

もうあっという間に12月1日。
2018年も31日で終わりなわけで。
只今2019AWの商品を作ってるんですが、
それが終ったら2020SSとかの話になり
もう2020年来てしまうの?と
時の流れにホラーを感じます今日この頃です。



そんな中、酉の市に行きまして
新しいのを買おうとした日の事です。
少しづつ熊手を大きくして商売繁盛の
験を担ごうと思って行ったんですが、
ふと冷静になってしまいました。



今年はこの熊手を見て頑張ろうと思った瞬間が
1秒もなかったと!
別に熊手が悪い訳じゃないんです。
ただ熊手にかける思いが足りてなかっただけなんです。
1年に1回の買った瞬間は頑張るぞと
奮起させてくれる存在であったかもしれないけど、
それよりも奮起させてくれる物事が多過ぎて
熊ちゃんは私にはそんなに必要なかったのです。


ということで今年は熊手を買わず
お礼を言って奉納し(グッバイ熊手)、
その買わなかった分のお金で本を購入しました。




その中の一冊に永井均さんの
「マンガは哲学する」を購入。



漫画に潜む"狂気"が
分かりやすく紹介されてます。

私は少年ジャンプを小2から読んで育ったので
どれも目から涙の解説と新たな視点がいっぱい。
ファッションと共通する大狂気なこともあるので
正月の1冊に是非お手にとってみて。
ジャンプで思い出したけど
ハンターハンターが休載で
(当然よね♡)、
富樫先生がもう次の10話分はできているっていう
激アツコメントを出してくれたので
もうそれだけで十分生きていけます。







ちょっと脱線しましたが
その流れで東村アキコさんの漫画
「かくかくしかじか」も購入しました。



作者の東村さんは私と同じ宮崎県出身で、
さらに同じ高校という宮崎のスターでございます。
(そのまんま東と温水洋一だけじゃないよ)
この作品は作者の自書伝で、
絵画教室の恩師の話です。

大人になってなんでふと何でこんなことしてんだろ
って思う事ありませんか?
私はめちゃあります。
でもそんな時、なぜ自分が選んだのか
原点に振り返らせてくれるような
モノや人との出会いがたぶん誰にでもあって、
この漫画はそんな原点を見失ったり、
自分を形成してくれたものを思い出させてくれる
激アツな本でした。


余談ですが、中学から高校まで通ってた
個人でやってる数学の塾があって、
そこの先生もめちゃ変でした。
(60歳後半で一回救急車で運ばれた)
テストで100点取ったら
月謝1000円引いてくれるんだけど、
一緒に行ってた友達皆結構頭よくて
引かれまくってて今思えば可哀想だったな。

そこで勉強のやり方を教わって、
数学が楽しくなって、
学校以外の問題めちゃ勉強させられて
いろんな勉強が楽しくなった気がする。
先生有難うだわ。









こんな感じで熊手から卒業し、
新しい本と出会った私でした。















2018年9月27日木曜日

やる気


展示会も無事に終わり、
何もやるきの起きない現象に襲われ(ちょっとはやってるよ)
パソコンを整理してみると
昔書いた文を見る機会があり読んで驚愕。





私事なんですが、放浪癖がありまして
色んな所に何も調べないで行って珍事件を起こす
っていう一人コントみたいな旅をしておりました。
そんな私が5年前に書いたものを今読んで、
超生意気過ぎる目線に、
よくここからファッションをしようかと思ったわねと
我ながら感心しております。



というのも、お題は「やる気」に関して。

そんな人間の起伏を左右する感情の一つに
少し疑問があり、それについての結果を
だらだら書いたもので、
今もこれをコントロールするのは至難の技。
サハラ砂漠で考えた私なりの考察です。笑







※だいぶ長めなのでお酒をダラダラ飲みながら読むのがお勧めです。






気まぐれな「やる気」に悩み、
ときどき感謝して、そしてただ楽しむこと。

これが旅に出て感じたことです。

旅に出る理由は以前から漠然と疑問にあった

「人は人生を変えられるか?」
ということを当てはめてみたく、
行きたい!と思う衝動で行きました。




誰だってその気になれば人生を変えられるっていう
そんな自己啓発本がたくさん。


もし私が啓発本を書いたら、
最初の1ページ目であなたは買った時点でダメですって書きたい。

(性格悪くてすみません)

売れてるのが不思議だけど、そういった本は売れている。
少なからず人は人生を変えられる人もいると思う。




それは否定しないとして、
ただ厄介なのは、言葉の持つ意味の曖昧さ。
言葉というのは、言葉そのものが100%表現できるものじゃなくて、
なるべく100%に近い意味を表すように人間が工夫して使うもので
「言葉は捉え方によって意味が異なる」ということ。
だけど、別の意味でいえば
「人生は変えられない。」
人生って生きてきたら結局一本道で、
これからいくつも道が別れていて自分の力だけで曲げてみせること?
実は真っ直ぐじゃないかもしれない未来を予想してみせること?
この先まっすぐ続くかどうかもわからない道に対して
「変える」という表現は何をもってできるか。




って面倒なことになるにで、
「人生を変える」だと何かすごく曖昧なので
変えるという表現を
「自分の力だけで人生を選択したかどうか」
道を選んだかどうかで考えてみてはどうだろうか。
人生って常に分岐点。
進学するか、就職するか、結婚するかしないか。
何だって人生の選択。
トンカツにしようか、お蕎麦にしようか。
そんな時、あなただったらどちらにする?
結果としてトンカツを選んだとする。
人生を変えるということを
「自分の力だけで人生を選択する」と仮定した場合、
果たしてトンカツを自分の力だけで選択肢したのか。
その瞬間、独立した意思のみで行われることではない。
トンカツを選ぶ瞬間!
自分だけでトンカツを選択したのではない。
と私は思ってしまう。




やれば何でもできるとか、
人に無限の可能性があるとすれば、
その瞬間その瞬間、人は無限の選択肢が与えられるべきだけど、
例えば、昼ごはん何たべようかなーと考えた時に、
無限の選択肢なんて出るはずがない。
お寿司でもピザでも素麺でも何だってあるのに。
だけどそれらが候補に挙がらないのは何で?
って言われれば正にその通り!


その瞬間のあなたが判断を下す以前に
あなたの取り巻く環境があなたを制限しているから。




もし気分だとしら、気分とかそもそも選ぶことができないよね。
その日の体調が悪ければ油っこいものとか食べたくないし、
暑かったら冷たいものが食べたいし、
食べたいものがあってもお金がなかった無理だし、
食べたいものがあっても遠いから行くのが面倒になったりとか。
そんな毎日繰り返す思考の中でどんどん効率化されて
ほとんど無意識の中で省かれていってしまうとしたら、
結果とし残った選択肢のものが
今日はトンカツかお蕎麦。
たった2つ。数がいくつとかの問題じゃないんだけど、
無限の選択肢には程遠い。


どう人生を変えるというのか。。。
今日の私はあえてお蕎麦!
っていうことかしら?
いやいや、そもそも運命的にはトンカツで良かったんじゃない?




この2つの選択肢が生まれる背景には
あなたの人生経験、家庭環境、人間関係などなど
ほぼ全部が関係している。
小さい頃に食べたトンカツがとても美味しくてとか、
お蕎麦が好きで美味しいお蕎麦を探しているとか。
は生きてれば勝手に実行されているとすれば、
その経験自体を、まず独立した経験で選んでいるなんてほぼ無理。
育った環境。
生まれた国。
親の教育方針。
出会う友達。
偶然(必然でも)、生んでくれた親で躾けられ褒められ怒られ生きて、
偶然生まれた国で、その国の文化や言葉を覚えその国の常識に順応し、
偶然出会った友達と、同じ体験を分かち合い、助け合ったりし、
その結果があなたの性格や好き嫌い、あなたの何か判断する力を形成し、
今あなたがトンカツかお蕎麦の選択を迫られている。




そしてこの選択でさえ、以前に起こった偶然の重なりからできた、
性格や好き嫌いによってあなたに決めさせようとしているのかもしれません。
人は判断する瞬間、YES!かNO!っていう役目みたい。
判断する瞬間に今までの経験や性格、その他のものを
ゼロにするなんてできるのか。




だけどそれができない限り、
無限の選択肢とそこから生まれる無限の可能性は手に入らない気がする。
あるのはいつも有限の可能性だけ。
勉強が苦手な人に何で勉強しないの?とかは愚問かもしれない。
その瞬間のその人には、その選択肢はないから。
トンカツ食べれるなら最初から食べてるし、
勉強得意だったら最初から勉強しているよって思う。
つまり環境や状況、やる気動機が備わってる人だと思う。
小さい頃から努力できる人もいれば
どれだけ歳をとっても努力できない人もいる。
努力なんて、その人のやる気次第よと言われればその通りだけど、
じゃあそのやる気ってどうやって操作するの?と思う。
やる気とか操作できたら皆スーパーマンだね!って。


何で?




もっと細かいことを言えば、
例えやる気があったとしても、成し遂げられるかとは別問題なのが
世の中の不公平なのところ。
やる気30%の美人とやる気100%の不細工が同じようにアイドルを
目指したとして、人生見た目が全てじゃないとしても、
見た目が重要視されるような世界でやる気100%の不細工じゃ難しい。
無理とは言わないけれど難しいのは違わない。
やる気は、もちろん高いことに越したことはないけれど、
その人と同じやる気を持っていたとしても
その人と同じ結果が出るわけじゃない。




人生の中でやる気はあるんだけどなぁ。。ってことある。
頑張ってるけど、成功できない、なんてのはまだいい。
やってみたいけど、どうも行動を起こす気に至らない、みたいなこと。
それって自分が持つハードルを越すほどのやる気ではないってことでは。
言い換えればそのやる気を凌駕してしまうほど、あなたが高いハードルを持っているかもしれない。




ハードルっているのを言い換えて「足かせ」という意味で。
あなたの足を引っ張る何かが、実は存在しているかもしれないということ。
行動を起こせない理由は何か必ず理由がある。
安定している生活とを天秤にかけてどちらがいいかを考えた時、
そんな生活を捨てて冒険しようとは思わない。
人のやる気レベルがMAXで死んでも構わないとすれば、
死んでもいいから成し遂げたいと思えるか。
死んでもいいレベルのやる気を持っていたら、
明らかに、その安定した生活を捨てているはず。
だけど、そこまでのやる気はないと。




自身の持つハードルの高さを超えていたなら、
たぶん既に相応の結果や行動が出る。
動機を選べない。
物事は動機が全て。
何かをしたいと思えばそれはできる。
けれど、そういう「何かしたい!」っていう感情はどこからか
急に湧いてくる。
意図して湧いてくるものじゃないと思う。
だから人はその気まぐれな動機に身を委ねるしかないと思う。
(私の好きな歌は美空ひばりの川の流れのようにです)
逆に動機が全然湧いてこない人だっている。
自分が何をやりたいのか分からない、そんな人たくさんいる。
同じ瞬間においては全ての人に通用しないということ。
何でもやればできる。それ自体は事実。




だけど、その「やれば」の話。
たぶん、全ての人に1回以上はやってやる的な瞬間がくる。
だけど実際は人生にタイムリミットがある。
だから生きている間に、もし何かのやる気が来たなら
それはすごくラッキーなことだと思う。




働き者のアリは働き者のアリだからじゃなく
働き者のアリがその「おかれている環境」で働いているからということに他ならない。
だって周りの人がほぼ全部の仕事をできたら
わざわざ自分が働く必要なんてないからそれはサボる者が現れる。
逆に周りの人が全く仕事をしてくれなくて
会社が全然回らない状態だったら望まなくてもしかたなしでも働くしかない。


サボる暇もない。
その時代や環境によって自分の行動が強いられる。
そんなことが少なくとも存在している。
だから、仕事をサボっている人、
いつまで経っても努力しない人、
頑張るって言ってるだけで行動しない人、
どんな人だってその人はその人なりの環境の中で、
何かに仕向けられ、悩んで苦しんで、
それでもその人なりに考えて、生きてると思う。
変な指導者、
刃物を振り回し暴れる人、
そしてこの旅で行ったアウシュビッツ強制収容所を作ったナチスを通して強く感じた。
そう片付けられるかもしれないけど、本当にそうなのか?
そうだとしたら、頭がおかしい人って


自分の意思で頭がおかしくなったのかな。
私はそうじゃないと思ってる。


どんなに狂った考えや行動に見えたって、
その人は与えられた環境と状況がと動機の中で
何かに強いられて生きるしかなったと思う。
その中で、自分が選び、選ばされ続けた分岐路の先に
ただそういう結果があっただけなんだと思う。
平和で安定した環境、未来があったなら、
そんな行動なんて取る必要もない。




行動があるということは
その前に動機があるはず。
動機があるということは
その裏には必ず理由になるような伏線がある。
そしてそれはアリの実験と同じように
働きアリが働きアリであるかは、関係なかったりする。
戦争が目の前で繰り広げられている世界や時代にいたら
夢を持つことや世界をみたいとか
人生とかってさ、、とかそんな戯言は絶対に言えない。
そんな考えは死ぬまで浮かんでこない気がする。
毎日が生死の境。
例えば親を誰かに殺されて絶対に復讐してやるって誓った時、
そこに日本の旅人がやってきて
そんなことしても良くないから、やめなよ。
とか言っても理解できるはずない。
たぶん私の中でこの復讐が悪になりえないから。
だけどそんな人生は自分が好きで選んだわけじゃない。
気がついたら、人の目に見えないレールに乗ってて
自分なりに走ってただけ。




だからその先にある誰かの結果が
いわゆる「悪」だとしても
私はその人を責められないし責めたくもない。
行ったっことのない土地で色々な人と出会って、
その土地の生活や価値観、人の人生を少し見せてもらった。
人はそれぞれの与えられた人生の中で
その人はその人なりの強いられた行動の中で
選んだりしているだけで、
やっぱり自分の力だけで人生を選んだり
何かを特別ねじ曲げてるようには見えなかった。
いつでもその人の、その瞬間のベストでMAXなんだと思う。
だから人を否定したくないし、責めたくない。
人生何も不自由無いなんてあり得ない。
何もしなくても横にそれてしまうよ。
当たり前だけどそれぞれ違う性格や人生を持っている。
同じようにみえる人であっても、
あなたと同じ結果を出せない人もいる。
他人のものさしで
「分かってない」とか「努力が足りない」とか
強い人の理論を言われて、気持ちを理解してもらえない人がいる。
自分を理解しようとしてくれる人ほど大切な人はいないと思う。
だから自分も誰かに対してそういう人になりたいなと思う。
傷の舐め合いとか優しくしたいとかじゃなくて、
ただ誰かの気持ちを理解したい。
それでいいと思う。




というのは人生を諦めてとか希望持ってとかの意味じゃなくて、
人生には可能性がある、ということ。
だけどそれは絶望とか希望とかを持たせるものでもなくて、
可能性はただめちゃくちゃ転がっているだけということ。
人が叶えらるどうかの確立より
世の中における偶然が発生する確立に近いかも。
そう思える人ならすごくラッキーだと思う。
やる気に満ち溢れていて、他人がどうやっても手に入れられない
「やる気」を持っているから。
それは何のためらいもなく存分に活用すべきだと思う。
じゃないと、あまりにも勿体無い。




人生にはタイムリミットがあるからね。
気まぐれな「やる気」に悩み、
ときどき感謝して、そしてただ楽しむこと!
です。
長い文を読んでくれて有難うございます。
今日もふざけて生きます!
これが旅に出て感じたことです。









2018年8月5日日曜日

人と話すということ

ある日、昔のバイト仲間のラッパーから
電話が掛かってきた。
内容はYさんに会いに行かない?
というお誘いの電話。
Yさんは私がバイトしてた時によく来ていた
常連さんのお爺ちゃんで、バーのオープン前にやってきて
ウイスキーのお湯割りを一杯引っ掛け、
風のように去って行くような
軽やかに生きているタイプの人間だった。
お店以外でも一緒にご飯に行ったり服を買いに行ったり、
学校の課題で写真を撮るのがあったら
モデルをお願いしたりとお客さんというより、
友達みたいな感じで接していた。




ファッションの話をすると109に
行ったことはあるか?と聞かれ
モードも分かるが109がなぜ残ってるのかを
見たほうがいいと言われ
一緒に109を徘徊したり笑
エルメスに行って品とは何かを店員さんと話したり、
世の中何が起こっているのかを教えてくれたりした。
一日5件くらいブログをアップしてて、そのブログの内容は仕事の延長上の経済の話を中心にデータ分析からその会社の動向、市場価値を綴った
結構ヘビー級の内容を
腱鞘炎になりながら書いていた笑
普通の人にない審美眼を持っていて、
一緒に遊ぶのがとても楽しかった。




そのお爺ちゃんとはかれこれ
10年くらいの付き合いになる。
現在は94歳。
ラッパーの友達が誘ってくれた理由に、
友達に不幸があって
いつ死んでもおかしくないから
時間あったら会いに行こうよ〜
という感じだった。
過去にこういう誘いがあって
そのまま会えなくなった友達がいたから
本当こういう誘いあったら皆様是非行って欲しいです!
それで2年ぶりにYさんに会いに行った。





家ではなく老人ホームになっていた。
ちょっと痩せていたものの
頭の回転は全く衰えてなかった。
耳が遠くなって音楽聞こえるの?と聞いたら
『音楽は魂で感じものだから耳は必要じゃない』とか。
いい女は叔父さんと付き合うのといいと言い、
じゃ叔父さんっていうのは男がどうなったら叔父さんなの?っと聞くと
『思いやりを持ってる男のこと』と、(心の中にクリーンヒット!)
若い時は容姿が綺麗さやその人が持っているもので概算するけど
そういいものは普遍的ではないからと言った。
そして他人に思いやりがもてるなら
自分を他人化して優しい人間になれると。

本当現代にこんなロマンチストいるかというくらい めちゃくちゃ
ロマンを連発するんだけど、ロマンを持てるのも人間ができることだなと。






こんな話をしている時は
もちろん目と目を見て話しをしている。
間違っても携帯を通しての話題ではなく
自分の生きている言葉を話している感覚があった。
あたり前のことかも知れないけど、人と話す時の感覚をもっと大切にしたいなと思った。




帰りに玄関まで見送りに来てくれたYさんに
いい女になったなと褒められた。
ということは、、、
いい叔父さんを見つけないと、、!
と感じる休日っす。







2018年5月30日水曜日

行動入門学

イスタンブール行きへの飛行機で
隣の席の80歳くらいの小柄で綺麗なお婆様が
12時間のフライト中に
ビール1杯、ワイン3杯、ウイスキー1杯(カップ大きめストレート)を
あれよあれよと飲みまくっているのを
片目でただただ見てたの。
そんな飲みまくって、ぽっくり逝ったら
それはそれで人生の終り方もありだなと
無駄な想像を。
勝手に人生の先輩の一人にしちゃお。


今更なんだけど、観たい観たいと思って
観れてなかったギレルモ・デルトロの最新作
『シェイプ・オブ・ウォーター』を観た。




簡単にいうと掃除のおばさんと半魚人の恋愛物語。
ギレルモ流の美女と野獣で、ホントはこうよ!みたいな。

全てのシーンが美しく、絵のようで、ファンタジーで、
あっという間に観れる映画。


画面のほどんどが「青緑」に支配されてて、
補色の赤が後半から所々に散りばめられ
赤の効果が半端ないっす。
恋が進展するにつれて赤が増えていくっていうね
何とも人間の心情を掴んでる演出。
恋すると赤が必要なんだね。
赤の服用意しとこ



主人公はしゃべれないんだけど、半魚人に恋して、
友人のゲイのおじさんに打ち明けると止められちゃって、


「私もしゃべれない、彼もしゃべれない、
私は化け物?私達は同じなの」


ってセリフでもう涙が止まんなくて
隣のお婆様も引いてたよ。
その他にも見所いっぱいなんだけど
もう観てしか言えないわ。



さてさて毎回逃避癖が発病し今回はある島に。
地中海の海風が一人沁みるわ。
夕食の帰り道、海岸線のエモいスポットで
アンルイスのグッバイマイラブとか聴いちゃった日には
もう完全に地球上で一人を感じるのよ。


一人と言えばいつも下調べしてないから
基本迷ったり、どこにいるんだ状態になんだけど
今回は無人島のビーチスポットに流れ着いた時には
久しぶり泣きそうだったわ。
泳ぐつもりで来てなかったし。
建物ないし、木もなくて、影がないので
暑過ぎてもう海に入るしかなかった。
後先考えずに下着で泳ぐって最高ね。





時間つぶしに持ってきた三島由紀夫先生の
行動入門学がとっても面白過ぎて
最早無人島は三島由紀夫の思い出しかない。
「精神は行動を促す原因かもしれないが、
行動には精神は関係ない」
って先生が仰ってた。


道理で迷子になるのか
と感じる旅でした。






2018年5月5日土曜日

情熱のカケラ

とある蔦屋での出来事。
2人用の向かい合いのテーブルの一脚に座りながら
雑誌を乱読してたら、目の前に腰を曲がらせたお老婆様が
「ここ空いてる?」
って聞いてきたので、
どうぞ〜って言うと、なんだかごそごそと動き回りながら
やっと席に着いた。夜10時くらい。
年齢的には80歳くらいで、
最近の高齢者は夜も長いのかと感心する。




最初は沈黙の時間が過ぎ、
もう帰ろうかなと思った頃、
そのお老婆様のスリッパが
あまりにも良い感じのボロボロ具合で
突っ込まずにはいられなかったので

「イケてるスリッパですね」と話してみると
「いい靴を履いてもこの年だと疲れちゃうのよ。
色々履いて、このスリッパがいいなってなって。
あとこんなにボロボロだと靴屋行って新しい靴買ったとき、
いつでも捨てれるじゃないの。」
なにこれ、新しいなこの考え方。
最早使い捨ての靴の時代が来てるのかと考えさせられたわ。



「昔はヒール履いてたし、
銀座が遊び場でおしゃれもしてたのよ。」
「そうだったんですね〜。
ハイカラさんだったんですね」
「そうハイカラよ!
それにしても今の子はヒール履かなくなったわね。
スニーカーでもおしゃれなものが増えたからかしら。」
待て待て。
お老婆様。80歳くらいなのに
そんなファッション敏感なの?!
めちゃ世の中見てるじゃない!
その後ファッションの話をし、
(主にレイヤーの話w)
お老婆様の好きなことについて話した。
演劇や旅行、ジャズ鑑賞が好きで勢力的に動いてらしい。


でも最近は歳を重ねるにつれて
興味の度合いが減ってるらしい。
足も悪くなって、気持ちも追いつかないようだ。
1時間くらい話をしていると、
そのお老婆様はどうやら色々経験をして
もう十分に分かったような話し方をしていた。
だいたい知ってるからもういいの。と。
色々やるのって疲れちゃうじゃない。
もう今はできるだけエネルギーを使わない生き方がいいのと。



話を聞きながら、歳をとるとそうなるのかと
改めて考えさせられた。
若いときの探究心はどこに行ったのか。
好きなことは歳をとると少なくなるのか。
面倒くさいって何なんだ。
エネルギーってなくなっちゃうの?
今、小泉今日子の素敵な生き方読んでるのに
何も影響されないの?w



そんな疑問が頭の中に少しずつ溜まってくる。
何かを知ったり好きになっていくことが"興味"で
のめり込んで追いかけることは"情熱"で
自分にとって知らないこと、分からないことが
海のように広がっていって、
船で航海するような感覚が広がることが
人生の楽しみなのではないかと思いたいけど、
そうではないようだ。


歳を取ると嫌でも自然と知識が身に付き
子供のような真っ白な頭の中のノートではなくなり
今まで生きたデータベースの何かに置き換え
あたかも全部分かったような気になるのか。
そんなんだったら、頭の容量が2メガくらいで
毎回何かに感動したいっす。



別れ際に名前を紹介し合う。
お老婆ちゃんの名前はヤスエちゃんといい、
「あなたの事、私好きよ。」
強い握手をする目はぎらついていた。
今度ジャズバーに行く約束して別れる。
帰り道のジャスミンの花の香りが沁みた。






2018年4月24日火曜日

月のきほん

展示会も終ってまともな食事をしている私ですが、
皆さんは食事にどんな"気合い"をかけてますか?笑



両親が食への執着が強いのを見て育ったので
できればその瞬間のベストを口にしたいという
欲丸出しに生きてきました。
(因に我が家はお肉がでないと父が怒ってます)


できれば季節のものを食べたいとか、
できれ想定外の美味しさのものがいいとか、
できれば好きな人ととしか食事したくないとか、、、


みたいなちょっと可愛い我が儘を
胸の奥底に今日は何を食べようかなとしてます。




作る体力も残ってない時期は
コンビニの御飯に助けてもらいました。
もちろん超便利。
だって温めもしてくれて
食べて容器は捨てるだけっていうね。
だから食べるっていうことがすごく行為的になって
何食べてるかわかんない感じがすごいのよ。
以前はマックとか食べると禁断のジャンクフード感あったけど
今はコンビニもジャンクフード的なね。
便利って考えものだわ。。




めちゃくちゃオーガニックよ私!
なんてことは全くないんですが、
小学生4年生くらいにカビの発生について
自由研究をしたことがあるんです。
パン屋で買った食パンと
スーパーで買ったヤマ○キの食パンで
瓶に詰めて同じ環境のもとで観察をしたら、
パン屋で買った食パンは4日くらいで
もうカビっぽいのが発生したのに比べて、
ヤマ○キの食パンは8日くらいでカビが発生したのを見て
どういうこと?という衝撃を頂きました。
その頃の私の感想は、
人間の科学の進歩ってすごいですね!
みたいな感じでしたが、
今思えばもっとそこを深く勉強していれば
まともな人間になれた気がしてしょうがないです。




そんなこんなで今日は新玉葱の三杯酢づけや
新牛蒡の炊込み御飯、鰯のなめろう、春キャベツの塩昆布で和えるだけっていう
割烹着姿を彷彿させる食事をして、
何度読んでも理解できない“月のきほん”を
読んで寝落ちするのが春の楽しみ方です。





友人とサーフィンをして、
波の満ち潮の動きをもっと知りたいと思って購入したんですが、
頭がいい人が書いたせいか
説明の仕方が下手すぎて
読んでて辛くなる本です。
やっぱり波はiPhoneのアプリで知るのが
ベストらしいです。


























2018年3月25日日曜日

もう春なのね

すっかり温かくなって人々の浮き足だった空気感が溜まらないです。
お昼からちょっと一杯〜が許される季節だと信じてます。




卒業シーズンということもあってつき合い始めたり別れたり
人生の色々転換期な人も多いかと思いますが、
実は毎日転換期って気づいたら結構無敵なので
そんな新しい春を迎えて欲しいです。



ということで今週からKOTONAは2018AWの展示会がスタートします。
展示会でゆっくり皆様とお話できるのが楽しみですが、
後半はほぼ乾涸びてますのでご愛嬌を。。



下記日程と詳細です。



2018年3月27日(火) >>> 2018年4月1日(日)
11:00 - 20:00 open


東京都渋谷区神宮前3-38-11
原宿ロイヤルビル2B
外苑前駅より5分
表参道駅・明治神宮前駅より10分


※friends day
3月31日(土) / 4月1日(日) 
平日の遅めの時間帯も大歓迎ですが、一報頂けると嬉しいです!




皆様にお会いできるのを心よりお待ちしております〜!






2018年2月4日日曜日

風に色をつける

横浜美術館にて開催されいる石内都さんの
「肌理(きめ)と写真」に行って参りました。



石内都さんといえば“Apartment”や“ひろしま”など街や遺品を取る写真家で、
フリーダ・カーロの遺品を撮影したシリーズは有名かと。





今回はなんといってもデビュー作の
「絶唱、横須賀ストーリー」もあり超見所いっぱい。
石内さんの物量を一気に見られる
機会はあんまりなかったのでお腹一杯。


個人的に高齢方の肌のシリーズは見て涙したのと、
初めの方のシルバーの額縁がしびれた。
あと中間にある大きな空間もたまげた。
Rick Owensの着物シリーズとか撮っていたなんて全然知らなかった。
写真OKだけど写真を写真で撮るってどうなのよ
って思って何も撮らずw
こちらは転載よ。




石内さんの写真って禍々しくて、
白黒の粒子の塊が織りなす質感は
写真としても成り立っているんだけど、
その背景を想像できる奥行きがすごい。


想像をさせるって言うと簡単なことかもだけど、
実際そんな視点を持っている人って少ないよな。

そして今みたいに画像が身近になると
重みが軽くなるというかポップになるみたいな。
ポップが悪いわけじゃないけど
シニカルダークのニヒルな深さが欲しくなって
そのいいとこ取りが今っぽいけど、
そんなのはもうお腹いっぱいみたいなね!


それでもって石内さんのような
独断と偏見(いい意味で!)な写真に触れると
あぁ、写真ってこうだよなってなるのよ。
人間の身体や遺品のような危ういものを
自分なりに解釈して距離を縮めて行くようなね。




こんなイメージに毒される時代だからこそ
写真と現実の距離について色々考えることができる展示でした。




帰りに横浜中華街の「山東」の餃子食べて
色々考えたはずなのに全て忘れた人間っぽい休日。












Feeling good

ラフォーレ前の交差点で帽子から靴まで 全身ピンクの装いをした 金髪のギャルおばさんが ラジオ型のスピーカーを右肩に背負いながら 優里のドライフラワーの曲に合わせて全力で歌い 練り歩いてた横を通った時に、 あぁ東京に出てきて良かったなと 心が軽くなる のは私だけでしょうか。 東京の...