2018年9月27日木曜日

やる気


展示会も無事に終わり、
何もやるきの起きない現象に襲われ(ちょっとはやってるよ)
パソコンを整理してみると
昔書いた文を見る機会があり読んで驚愕。





私事なんですが、放浪癖がありまして
色んな所に何も調べないで行って珍事件を起こす
っていう一人コントみたいな旅をしておりました。
そんな私が5年前に書いたものを今読んで、
超生意気過ぎる目線に、
よくここからファッションをしようかと思ったわねと
我ながら感心しております。



というのも、お題は「やる気」に関して。

そんな人間の起伏を左右する感情の一つに
少し疑問があり、それについての結果を
だらだら書いたもので、
今もこれをコントロールするのは至難の技。
サハラ砂漠で考えた私なりの考察です。笑







※だいぶ長めなのでお酒をダラダラ飲みながら読むのがお勧めです。






気まぐれな「やる気」に悩み、
ときどき感謝して、そしてただ楽しむこと。

これが旅に出て感じたことです。

旅に出る理由は以前から漠然と疑問にあった

「人は人生を変えられるか?」
ということを当てはめてみたく、
行きたい!と思う衝動で行きました。




誰だってその気になれば人生を変えられるっていう
そんな自己啓発本がたくさん。


もし私が啓発本を書いたら、
最初の1ページ目であなたは買った時点でダメですって書きたい。

(性格悪くてすみません)

売れてるのが不思議だけど、そういった本は売れている。
少なからず人は人生を変えられる人もいると思う。




それは否定しないとして、
ただ厄介なのは、言葉の持つ意味の曖昧さ。
言葉というのは、言葉そのものが100%表現できるものじゃなくて、
なるべく100%に近い意味を表すように人間が工夫して使うもので
「言葉は捉え方によって意味が異なる」ということ。
だけど、別の意味でいえば
「人生は変えられない。」
人生って生きてきたら結局一本道で、
これからいくつも道が別れていて自分の力だけで曲げてみせること?
実は真っ直ぐじゃないかもしれない未来を予想してみせること?
この先まっすぐ続くかどうかもわからない道に対して
「変える」という表現は何をもってできるか。




って面倒なことになるにで、
「人生を変える」だと何かすごく曖昧なので
変えるという表現を
「自分の力だけで人生を選択したかどうか」
道を選んだかどうかで考えてみてはどうだろうか。
人生って常に分岐点。
進学するか、就職するか、結婚するかしないか。
何だって人生の選択。
トンカツにしようか、お蕎麦にしようか。
そんな時、あなただったらどちらにする?
結果としてトンカツを選んだとする。
人生を変えるということを
「自分の力だけで人生を選択する」と仮定した場合、
果たしてトンカツを自分の力だけで選択肢したのか。
その瞬間、独立した意思のみで行われることではない。
トンカツを選ぶ瞬間!
自分だけでトンカツを選択したのではない。
と私は思ってしまう。




やれば何でもできるとか、
人に無限の可能性があるとすれば、
その瞬間その瞬間、人は無限の選択肢が与えられるべきだけど、
例えば、昼ごはん何たべようかなーと考えた時に、
無限の選択肢なんて出るはずがない。
お寿司でもピザでも素麺でも何だってあるのに。
だけどそれらが候補に挙がらないのは何で?
って言われれば正にその通り!


その瞬間のあなたが判断を下す以前に
あなたの取り巻く環境があなたを制限しているから。




もし気分だとしら、気分とかそもそも選ぶことができないよね。
その日の体調が悪ければ油っこいものとか食べたくないし、
暑かったら冷たいものが食べたいし、
食べたいものがあってもお金がなかった無理だし、
食べたいものがあっても遠いから行くのが面倒になったりとか。
そんな毎日繰り返す思考の中でどんどん効率化されて
ほとんど無意識の中で省かれていってしまうとしたら、
結果とし残った選択肢のものが
今日はトンカツかお蕎麦。
たった2つ。数がいくつとかの問題じゃないんだけど、
無限の選択肢には程遠い。


どう人生を変えるというのか。。。
今日の私はあえてお蕎麦!
っていうことかしら?
いやいや、そもそも運命的にはトンカツで良かったんじゃない?




この2つの選択肢が生まれる背景には
あなたの人生経験、家庭環境、人間関係などなど
ほぼ全部が関係している。
小さい頃に食べたトンカツがとても美味しくてとか、
お蕎麦が好きで美味しいお蕎麦を探しているとか。
は生きてれば勝手に実行されているとすれば、
その経験自体を、まず独立した経験で選んでいるなんてほぼ無理。
育った環境。
生まれた国。
親の教育方針。
出会う友達。
偶然(必然でも)、生んでくれた親で躾けられ褒められ怒られ生きて、
偶然生まれた国で、その国の文化や言葉を覚えその国の常識に順応し、
偶然出会った友達と、同じ体験を分かち合い、助け合ったりし、
その結果があなたの性格や好き嫌い、あなたの何か判断する力を形成し、
今あなたがトンカツかお蕎麦の選択を迫られている。




そしてこの選択でさえ、以前に起こった偶然の重なりからできた、
性格や好き嫌いによってあなたに決めさせようとしているのかもしれません。
人は判断する瞬間、YES!かNO!っていう役目みたい。
判断する瞬間に今までの経験や性格、その他のものを
ゼロにするなんてできるのか。




だけどそれができない限り、
無限の選択肢とそこから生まれる無限の可能性は手に入らない気がする。
あるのはいつも有限の可能性だけ。
勉強が苦手な人に何で勉強しないの?とかは愚問かもしれない。
その瞬間のその人には、その選択肢はないから。
トンカツ食べれるなら最初から食べてるし、
勉強得意だったら最初から勉強しているよって思う。
つまり環境や状況、やる気動機が備わってる人だと思う。
小さい頃から努力できる人もいれば
どれだけ歳をとっても努力できない人もいる。
努力なんて、その人のやる気次第よと言われればその通りだけど、
じゃあそのやる気ってどうやって操作するの?と思う。
やる気とか操作できたら皆スーパーマンだね!って。


何で?




もっと細かいことを言えば、
例えやる気があったとしても、成し遂げられるかとは別問題なのが
世の中の不公平なのところ。
やる気30%の美人とやる気100%の不細工が同じようにアイドルを
目指したとして、人生見た目が全てじゃないとしても、
見た目が重要視されるような世界でやる気100%の不細工じゃ難しい。
無理とは言わないけれど難しいのは違わない。
やる気は、もちろん高いことに越したことはないけれど、
その人と同じやる気を持っていたとしても
その人と同じ結果が出るわけじゃない。




人生の中でやる気はあるんだけどなぁ。。ってことある。
頑張ってるけど、成功できない、なんてのはまだいい。
やってみたいけど、どうも行動を起こす気に至らない、みたいなこと。
それって自分が持つハードルを越すほどのやる気ではないってことでは。
言い換えればそのやる気を凌駕してしまうほど、あなたが高いハードルを持っているかもしれない。




ハードルっているのを言い換えて「足かせ」という意味で。
あなたの足を引っ張る何かが、実は存在しているかもしれないということ。
行動を起こせない理由は何か必ず理由がある。
安定している生活とを天秤にかけてどちらがいいかを考えた時、
そんな生活を捨てて冒険しようとは思わない。
人のやる気レベルがMAXで死んでも構わないとすれば、
死んでもいいから成し遂げたいと思えるか。
死んでもいいレベルのやる気を持っていたら、
明らかに、その安定した生活を捨てているはず。
だけど、そこまでのやる気はないと。




自身の持つハードルの高さを超えていたなら、
たぶん既に相応の結果や行動が出る。
動機を選べない。
物事は動機が全て。
何かをしたいと思えばそれはできる。
けれど、そういう「何かしたい!」っていう感情はどこからか
急に湧いてくる。
意図して湧いてくるものじゃないと思う。
だから人はその気まぐれな動機に身を委ねるしかないと思う。
(私の好きな歌は美空ひばりの川の流れのようにです)
逆に動機が全然湧いてこない人だっている。
自分が何をやりたいのか分からない、そんな人たくさんいる。
同じ瞬間においては全ての人に通用しないということ。
何でもやればできる。それ自体は事実。




だけど、その「やれば」の話。
たぶん、全ての人に1回以上はやってやる的な瞬間がくる。
だけど実際は人生にタイムリミットがある。
だから生きている間に、もし何かのやる気が来たなら
それはすごくラッキーなことだと思う。




働き者のアリは働き者のアリだからじゃなく
働き者のアリがその「おかれている環境」で働いているからということに他ならない。
だって周りの人がほぼ全部の仕事をできたら
わざわざ自分が働く必要なんてないからそれはサボる者が現れる。
逆に周りの人が全く仕事をしてくれなくて
会社が全然回らない状態だったら望まなくてもしかたなしでも働くしかない。


サボる暇もない。
その時代や環境によって自分の行動が強いられる。
そんなことが少なくとも存在している。
だから、仕事をサボっている人、
いつまで経っても努力しない人、
頑張るって言ってるだけで行動しない人、
どんな人だってその人はその人なりの環境の中で、
何かに仕向けられ、悩んで苦しんで、
それでもその人なりに考えて、生きてると思う。
変な指導者、
刃物を振り回し暴れる人、
そしてこの旅で行ったアウシュビッツ強制収容所を作ったナチスを通して強く感じた。
そう片付けられるかもしれないけど、本当にそうなのか?
そうだとしたら、頭がおかしい人って


自分の意思で頭がおかしくなったのかな。
私はそうじゃないと思ってる。


どんなに狂った考えや行動に見えたって、
その人は与えられた環境と状況がと動機の中で
何かに強いられて生きるしかなったと思う。
その中で、自分が選び、選ばされ続けた分岐路の先に
ただそういう結果があっただけなんだと思う。
平和で安定した環境、未来があったなら、
そんな行動なんて取る必要もない。




行動があるということは
その前に動機があるはず。
動機があるということは
その裏には必ず理由になるような伏線がある。
そしてそれはアリの実験と同じように
働きアリが働きアリであるかは、関係なかったりする。
戦争が目の前で繰り広げられている世界や時代にいたら
夢を持つことや世界をみたいとか
人生とかってさ、、とかそんな戯言は絶対に言えない。
そんな考えは死ぬまで浮かんでこない気がする。
毎日が生死の境。
例えば親を誰かに殺されて絶対に復讐してやるって誓った時、
そこに日本の旅人がやってきて
そんなことしても良くないから、やめなよ。
とか言っても理解できるはずない。
たぶん私の中でこの復讐が悪になりえないから。
だけどそんな人生は自分が好きで選んだわけじゃない。
気がついたら、人の目に見えないレールに乗ってて
自分なりに走ってただけ。




だからその先にある誰かの結果が
いわゆる「悪」だとしても
私はその人を責められないし責めたくもない。
行ったっことのない土地で色々な人と出会って、
その土地の生活や価値観、人の人生を少し見せてもらった。
人はそれぞれの与えられた人生の中で
その人はその人なりの強いられた行動の中で
選んだりしているだけで、
やっぱり自分の力だけで人生を選んだり
何かを特別ねじ曲げてるようには見えなかった。
いつでもその人の、その瞬間のベストでMAXなんだと思う。
だから人を否定したくないし、責めたくない。
人生何も不自由無いなんてあり得ない。
何もしなくても横にそれてしまうよ。
当たり前だけどそれぞれ違う性格や人生を持っている。
同じようにみえる人であっても、
あなたと同じ結果を出せない人もいる。
他人のものさしで
「分かってない」とか「努力が足りない」とか
強い人の理論を言われて、気持ちを理解してもらえない人がいる。
自分を理解しようとしてくれる人ほど大切な人はいないと思う。
だから自分も誰かに対してそういう人になりたいなと思う。
傷の舐め合いとか優しくしたいとかじゃなくて、
ただ誰かの気持ちを理解したい。
それでいいと思う。




というのは人生を諦めてとか希望持ってとかの意味じゃなくて、
人生には可能性がある、ということ。
だけどそれは絶望とか希望とかを持たせるものでもなくて、
可能性はただめちゃくちゃ転がっているだけということ。
人が叶えらるどうかの確立より
世の中における偶然が発生する確立に近いかも。
そう思える人ならすごくラッキーだと思う。
やる気に満ち溢れていて、他人がどうやっても手に入れられない
「やる気」を持っているから。
それは何のためらいもなく存分に活用すべきだと思う。
じゃないと、あまりにも勿体無い。




人生にはタイムリミットがあるからね。
気まぐれな「やる気」に悩み、
ときどき感謝して、そしてただ楽しむこと!
です。
長い文を読んでくれて有難うございます。
今日もふざけて生きます!
これが旅に出て感じたことです。









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